2026年6月29日 信義則に背く代償

 私は、幸いな事にこの歳まで生かされてきた。不幸中の幸い、怒りや恐怖や憎悪に染まった中でも、私の傍には少しの「信頼できる人々」がいてくれて、苦楽と成長を共にさせてもらえた。彼らに共通して言える事は、いくつかある。

・悪意から生ずる嘘を言わない。
・利己心に駆られず清貧である。
・自己保存のために隣人を売らない。
・信心深い信徒である。
・信仰を持たずとも倫理に篤い。

 私は彼らの事をこそ、胸襟を開いて仲間と呼びたい。
 しかし、社会に生きている人々の全てが、上記に当てはまるわけがない。前述した人々は、出逢えた事が奇跡と呼べる御縁である。
 さて、実際に社会で生きるとなれば、怒りに憎悪、逆恨みや嫉妬、嫉み、様々な負の感情に支配された人々との暮らしを余儀なくされる。まるでテストで満点を取る様な処世術があるのか、私には解らないが、常として、悪事を働く輩達には一切の心も物も与えないことを決めていた。彼らの面倒を見るのは、彼らと好き好んで接する人々に任せておけば良い。

 民法1条2項「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」

 いわゆる信義誠実の原則(信義則)である。
 精神に富める者が、精神の貧しい者のために善意を施し、約束を守り、義務を果たす事は、道義的に見て正しいが、後者までもが必ず信義則を守り、信頼関係を破壊しないために活動するとは限らない。そのため私は、師より「お前は自分の直感を信じて良い」と許しを得た日より、無差別的に信義則を守る事を止めた。私の直感が告げる「この人は危険だ」という信号をキャッチした時点で、その相手との関わりを避ける様に行動する。相手からの要求には一切応じない。相手からの質問にも一切応じない。その結果として、不平不満を並べられても、質問攻めを受けても、私は信頼できない相手を見破っただけなのだから。

 しかし、信義則に背く人々が「他者の思いやりを受けるに値しない」とは微塵にも思わない。むしろ、その人間関係的環境下に於いて、他者を慮り、情けをかける事のできる人物こそ、私よりも一歩先を進んでいる人物だろう。私の眼から見ると、不義を働く人々は往々にして他者の情けや思いやりを仇で返す事が得意と見えるため、私にはどうしても心を施すことが苦手である。
 私は、私自身が最も傷つかない距離と選択によって、実行可能な範囲での信義則の適用範囲を測っているのかも知れない。

タイトルとURLをコピーしました