芥川の名作のひとつである『蜜柑』を読んでいると、地の文の視線誘導が見事、見事の一言に尽きる。これは太宰治にも見られる書き方であると私は考える。日本語の表現方法は、叙事的表現よりも叙景的表現を磨く事の方が、重要なのかも知れない。
さて、今回の主人公は、前の席に座った『小娘』の事を、直接そう描きはしないが、鬱陶しいと言わんばかりに否定し続ける。これは、何故だろうか。汽車の乗り方と身だしなみの作法を知っている都会者(と思しき主人公)だからこそ抱えている「田舎者ならではのどんくさい一面」に対する嫌悪感かも知れない。汽車の乗り方や、身なりの整え方。まるで自分が相手の一挙一動を裁く様な胸中を語っているが、これは私自身、戒めたいと思っている短所である。
私は普段から継続している詩作の中で『修羅』という単語を頻繁に用いる。これは、私という存在を仏教の教義に照らし合わせると、阿修羅道と呼ばれる世界の住民である事が、教義としても、実体験としても、恐ろしい程に一致するからだ。修羅としての性を持つ私は、二十四時間、ふと気が付けば心の中で他者を裁いている。お恥ずかしい限りだ。私はこの特色を、自惚れや怒りを自制できない精神から来ると考えている。そのため、作中の主人公が感じている軽い苛立ちは、種類は違えども、痛いほどに良く分かる。
作中の『小娘』が握りしめている「三等の赤切符」という表現も、まるで、慣れない汽車に乗り込んだ女性の、心細さや不安が、静かな叙情として現れていて、味わい深い文章だ。この箇所を読んだだけで、私も初めて一人で関東へと赴いて、満員電車に揺られた時の心細さを思い出す。……満員電車に慣れる事ってあるんですか? ふとした疑問です。
また、主人公が夕刊を読むシーンに於いては「世間はあまりに平凡な出来事ばかりで持ちきっていた」と嘆く心境は、ある種、現代社会を生きる私達にも似通った面があるのではないだろうか。ニュースやソーシャルネットワークサービスを通して入手する情報は、どれも過剰な感情を煽る様にできている。中庸や中道といった考え方からは遠く離れた世界だ。その中で、情報を貪り、精神への強い刺激を渇望し続ける現代人にとって、この主人公の云う「情報のつまらなさ」とは、多くの人が共感できる嘆きなのかも知れない。
2026年6月29日 芥川龍之介の『蜜柑』を読む
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