年が明けて、新しい希望や野心に燃える事は素晴らしい。
過ぎた月日の箱を開いて、喜怒哀楽を含めて慈しむ姿は美しい。
私には、交際を始めてから六年目を迎えるパートナーがいる。彼と出逢った2020年の夏や、想いを告げた暮れ方からの始まり。それらに思いを馳せていると、何故、私達は幸せになれたのだろうか、と考える事がある。
それは必然であった。
私も彼も、互いに嘘を用いない。常に真実の人として相手を認め合い、言葉を交わし、日毎夜毎の全てを共にしてきた。二人して、歴史や哲学や仏教、芸術や音楽や文学に学びを得ながら、人々の暮らしに隠された普遍性や、人としての道理の不変性を探求してきた。
詰まる所、私達の恋路が、成長を是とする側面を持つからだ。
同時に、その道を阻む者達とは、片っ端から縁を切って来た。
腐れ縁や、私達に対して友人の顔を持ちながら悪意を持ち込む者達や、悪事を繰り返す業に縛られた者達、そして、偽証に生きる者とも縁を切って来た。
これは、正しい判断である。
一度でも偽証を世に広め、媚びを売り、無実の者に咎を背負わせて、自身の価値を高めようと喚く者は、その行いを止められないのだ。これは決して、比喩ではない。文字通り、止める事ができない。
偽証の結果、争いを好む人々を仲間に迎え入れて(或いは自身が仲間に迎え入れられて)自身の発言力や影響力、そして自身の偽証と虚栄が周囲から称賛された、と錯覚してしまったが最後、偽証の者は、この生き地獄から抜け出せないのだ。
何故なら、争いを続ける事でしか、自らの快楽や悦楽、地位や名誉、称賛の声を、受け取る事が不可能になるからだ。邪道に踏み入った事により、正道を歩む清々しさや喜び、誠実な達成感、心からの敬愛を受け取れなくなる。
偽証の者は、世の嘘つき達と同様に、一時的には得をする。
それは致し方が無い、この唯物論世界、唯心論世界はその様に仕組みを成している。
しかし、偽証の者として、この唯識論世界にて長く生きる事はできない。
永く苦しむ道だけが、その導の無い道の先に、どこまでも続くのだから。
私は、人の不幸を願わない、人の不幸を嗤えない。
だが、仏教徒として因果説を教わった。それ故に、本日の記事を書くに至った。
願わくば、この記事を読んでくれた人が、偽証の者に成りません様に。
そして、何よりも私の祈りが、君の成長を妨げません様に。
