私は八正道の実戦以外に生を知らず、
中道が存在しない世界には生きていない、と振り返る。
八正道を知る前までの自身を亡者、或いは繭と認識している。
中道を知ったからには、中道を廃した考えを重宝しない。
私の中の過去は死に絶えて、今をただ「在る」その中で、
明日の私に連鎖的な変革が起きる。変革によって起こされる。
自身の生きる道が見えた時、同時に「殉じる道」も見える。
殉じる道は生の目指す、長距離走の道のりであり、
決してゴールを指す言葉ではない。ゴールは目的ではない。
ゴールは今生の終着点、主観にとっての偶発性に過ぎない。
私が八正道を父から教わり、教書を授けられて、
病魔との闘いに、仏教の智慧を携えて、立ち向かった時、
仏縁あって与えられた如来への信心と、先人の智慧の光、
それを敢えて、何かの言葉に置き換える事はできない。
文学という術を用いて、詩や短編作品の形を通して、
人を生かす方便を世に広めたくなった、それだけだった。
文学は名誉じゃない。生活の糧じゃない。
私が今生に在る間、歩く道であり手に取る道具に過ぎない。
これは決して、私が今後不変である事を意味しない。
それどころか、劇的な変化を受け入れて、今に至るのだから。
「悪人がいる。善人がいる。では悪と善の定義は何だ」
人は言葉に出して問う。何故か。無知だからだ。
無知であるが故に、恐れと怒りを抱えるからだ。
恐れと怒りを動機に質問を繰り返す姿は、
悪と善の定義を欲する筈の質問から、その目的を消失している。
自身の無知を知り、真如の存在に体感を伴って気づき、
俯瞰と内省に生きる信徒にとって、急激に言葉の意味が無くなる。
すると、沈黙は、既に役割を完璧に達成している。
沈黙は敬意と実学、その精錬を可能にする習慣である。
私がペンを執り、内省派文学を綴る事。
私達が修行の志を共にする仲間達と議論を交わす事。
私が沈黙を用いながら、他者の沈黙を認める事。
私達が沈黙の中で、より多くを語り合える事。
私は、これらの言動に一切の差異が無い事を認める者であります。
