2025年12月30日 沈黙の美

言語は、会話や文章で他者に何かを伝えるために用いられますが、
言語の役目は、伝える事と伝えない事のふたつがあります。
私は、今まで、考えた事は何もかも詩や短編作品の形で書いてきました。
しかし、何もかも表現したとしても、意義の無い事さえあり得るのです。
私は、言語に対する認識と運用法を改める、その時が来たと確信しています。

「雄弁」という言葉が有ります。雄弁は饒舌という虚弱性でもあります。
皆、互いに饒舌になる事で、傷つけ合いながら麻酔を打っているのです。
「沈黙」という言葉が有ります。人は沈黙を恐れます。沈黙はより多くを語るからです。
静けさに、人は自身の把握できない真っ暗闇の領域が存在する事を知ります。

ですが、私は自他の沈黙を愛しました。自分に恥ずかしい所が無いからです。
自身が敵意や悪意を抱えず、善であろうと努める有意識の持ち主であるならば、
誠実とされる生き様の裏で、何を恐れて、言葉を重ねる事がありましょうか。
沈黙は正当な自己防衛であります。他者の沈黙を認める時、それは敬意に変わります。

真の敬意を捧げ合う間柄では、敬愛を示し互いの成長を願う時点で、会話は完結します。
互いに尊敬し合える仲というものは、簡単には出逢えません。その御縁が有難い事です。
敬う念を持つからこそ、社会通念を認識できます。
社会通念が互いを守り、成長を促します。
社会通念は、倫理の一語と置き換える事も可能なのです。

言葉とは、理解し合うための術であると同時に、
理解を阻む壁でもある事を相互に承知した上で、
人は初めて、言語に対して能動的な選択肢を得ます。
低俗な質問や罵声には、意図して相手を傷つけない沈黙で応じる事が大切です。
もしも、沈黙で傷つく人ならば、人生に迎えて良い相手ではありません。
その者達は、争いの場にのみ生きて、心休まる事を知り得ないからです。

父よ、私は言語を用いる事を好んできました。無数の文章を綴ってきました。
ですが、この心境に至ってからは、言葉を用いない言語、選択的寡黙の素晴らしさを知り、
八正道の始まりの三つ「正見、正思、正語」の努めについて、理解が深まりました。
この実学を生きた教書として、新年も精進したいと思います。

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