師を前に神の在り処を指す為に心に指を眼にも光を
自身の内外を問わず、欠けた物事に対して執着を続ければ、自己の在り方は醜く歪んでいくだろう。私はこの状態を極度に恐れ、特に執着する心を、可能な限り持たぬ様に……と戒めてきた。しかし、全ての物事が因果を生む源泉ならば、この手放し難い苦しみがもたらす因果も、また次の辛苦を生むのではないかと憂いている。現に、まだ三十年程度しか生きていない私が、生きるという一語を心から、今はまだ受け入れきれていない理由があった。
個人は、先人の智慧のみに学べる訳ではない。また、先人の実学だけで、自らの実学として吸収できる訳でもない。いくら私が個人の可能な範囲で、仏の教えを学ぼうと努めても、実感を伴って学び得ても、身体という束縛から逃れられない。脳や体で感受した感情に一喜一憂して、生きる喜びを嚙みしめたかと思えば、明日どころか今日を如何に生きれば良いのかすら解らない、絶望に打ちひしがれる日もある。この想念のシーソーに揺られながら、安息とはどの様に生み出せるものなのか、気が狂う思いで考え続けてきた。しかし、いくら根性論的に「自己の内側での唯物的な価値観の廃止」を試みても、前述の通り、私は肉体を持つ凡夫である。苦痛も、哀しみも、そして想念を浮つかせる喜びも、常としてついて回るのだ。
美味しいご飯を食べている筈なのに味がしない、食べた実感が無い。素晴らしい映画を見ている筈なのに、心が動かない。友人達と楽しい時間を共にしている筈なのに、魂が死んでいる。その状態を、私は生きているとは呼びたくなかった。生きながらにして、瀕死の状態である。処方された精神薬の錠剤シートを眺めて逃避を考えた。ベルトを輪にしてぶら下げる場所を探し、部屋をうろついた真夜中。台所にて包丁を目の前に立ち尽くした日々。それらの暮らしの苦痛が、何よりも等身大の自分であった。しかし、私は悔しくて、何よりも悔しくて、死にきれなかった。これは、断じて自己憐憫の主張の為に語っているのではない。「だからこそ、生きねばならんのだ」と声を大に、姿無き隣人達に訴えかける為に、今こうして筆を執っている。
「生きていれば良い事がある」という考え方は、私は好かない方であった。それは、良い事、悪い事の連続の度に、生きる希望と希死念慮を繰り返す、躁鬱的な思案の習慣化を促すと実感したからだ。それこそ、唯物的な執着の心に他ならない。私は、学も無ければ貯蓄も無く、まともな職に就いた経験も少ない。たったひとつの夢さえも道半ばにして奪われ、その言葉を飲み込んで、頬を濡らす日々だ。しかし、生きる事は善い。生きる事が善い。「生きていれば良い事が……」という対価を欲する条件的な考えからではなく、無条件に、手放しに、自身が生きている事実を受け止める他になかった。耐えながらにして、生き続けるしかない。誰からも認められない人生で良い。最後の最期に、私が自らに「おつかれさま」と言える生涯を全うしたい。