2024年12月22日 理解という二文字の詭弁

人を理解する必要は無い、と私は気づきました。
理解を求められました、促されました。
しかし、理解できれば、赦せますでしょうか。
人が誠実に理解すべき実体は、自身に他ならない。
怒りも敵意も憎しみも、反発や復讐の一念のそれらへの、
封じて対処する選択も、自らへの理解に基づきます。

 現代語に於ける理解の二文字は、多くの方々が扱い方を誤っている刃物の様に思える。具体的には、理解と共感を同一視している。説明してもらえたら物事が解る、解れば問題が解決する。解決した場合に限り『分かり合えた』と共感のワンステップを誤って想念に挟み込み、結果、理解とは相互的な共感であると勘違いをする。解決しない場合には、分かり合えない、根本的に合わない、相手が悪い、自分は裏切られた……と理解とは程遠い、私怨の数々である。インターネット上でも、物質的社会の暮らしでも、この応報が特に顕著ではないだろうか。

 これは、相手の立場で考える思案の試行錯誤でも同じだ。他者の咎を追う心を解決したいのであれば、他者を理解する前に自己を知らなければならない。決して相容れない、同一に成り得ない自他という前提を忘れて何故「相手を理解した自分」を有力視できるのだろう。それは、他の存在から自己の内側に情報を輸入して、我流で噛み砕いて飲み込んだ結果の中から、正解を見つけられると思いあがっているだけだ。つまり、実際には自己の内側から他の存在に対して、想念の投影を行い浮かび上がった、自分なりに「この様に合点したい、この様に納得したい」という虚像を信じ込んでいるだけでしかないのだ。他者の言動から怒りを覚え、咎を追う感情が湧くならば、心が動いた己を知る事が先決であると私は考える。

 相手を理解する為に質問を繰り返す人の脆弱性は、その質問で相手を知る事ができるという自惚れにある。『百を問い、百を学べる』ほどに、我々凡夫は聡明な存在ではない上に、質問を受けた相手が、誠実に答える保証など、どこにあるのだろうか。「矛盾を内包した状態を維持する」という案もあるが、私は、この在り方を肯定的な維持ではなく、他者の都合の良さを基準とする、自己に対する否定的停滞であると実学を通して学び得た。「慣れる事で麻痺せよ」という意見に対しても、私は頑なに拒否を続けてきた。誰かにとって、都合の良い様に精神的構造と体感や認識の在り方を変えられる事を、洗脳と呼ばずして、何と呼ぶ。他者の問題は、他者の課題であり、私の問題は、私の課題である。自他の身体的、精神的な隔たりを、活かすために敢えて別の物事、解り合えない心、と受け入れる勇気を持たずして何が理解か。

 人との縁は理解に基づくもの、と考える意見があるならば、それは極めて唯物的な認識である事を、意見したい。マウスのクリックひとつ、ボタンひとつで、ネット上は人が繋がったり繋がりを断ち切ったり可能である。しかし、御縁や縁起から成る物事は、私達人間の、凡夫の頭脳程度の理性と人情で計り知れるものではない。また、私は相互的理解や、対話を否定している訳ではない。『あなた達が行い求める理解と、私が自らに課す理解は別物である』という大前提を述べるために、今回の記事を書くに至ったのだ。私は、内省を繰り返さずして今の自分は無かった。それは自分に対する理解に他ならなかった。この在り方を『自分探し』と評される事もあるだろう。唯物的価値観や思考に基づく人生観では、言動の足し算で自身を構築して、創りあげたいのだろう。この度の文章を通して、私は誰かを理解できただろうか。また、誰かにとって自らの頭脳で思い浮かべ理解していた積もりの私は、実像と同一であっただろうか。お互いに「それは違う」と呟くかも知れない。何故なら、私達は各々の道を歩んでいるからだ。では、理解とは何であっただろうか。

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