人道まで登れば 苦しみは四苦八苦の一言で済む
これほど解りやすく 幸せな事など他には無い
修羅道まで登れば 苦しみは赦しひとつで片付く
これほど解りやすく 幸せな事など他には無い
生まれ変わる世界が六つあるという。そのひとつに『人道』が含まれて、この世界に生まれた者達は皆、善と悪との判別を考えて、言動を選べるそうだ。素晴らしい事だ。修羅道に暮らしている自覚を持つ私は、今生の内に、必ず人間に成りたいと願い続けていた。だが、いつもの様に関わる人達を観察していると「最も苦しいのは人間かも知れない」と考えを改めるようになった。選択の為の自由意志は、善の道へ舵を切るか、罪悪を知りながら望んで獄に繋がれる道を進むか、その判断が連続しているからだ。
修羅は、妄執的正義に囚われて、怒りを燃やし、永遠に争い続ける世界の住民であるけれど、私は、修羅でありながら他者と戦う事は避けてきた。それは、我を張る行為だと教えを説かれてきたからだ。しかし、私には文章を書くという術があり、この技法を以て自らの感情を消化する為に書き続けてきた。心積もりとしては、赦せない事に対して、その場で「反応」をする気は一切ない。だが、一人の凡夫でもあるので、当事者達に反応せず、あくまで文章作品を書くという形で、己の感情と正面から向き合う「応答」を大切に思う。闘うべき相手も、赦すべき相手も、怒りを抱えた自分に他ならなかった。これは、私自身の内側にある、小さな良心との約束であった。
私が実家に暮らしていた頃、些細な記憶を相手に、私が怒り狂う時は、必ず父が繰り返してくれた言葉がある。「ここで怒っても、意味が無い」「うん、良いじゃないか」前者は、怒りが唯物的に苦しみだけの存在であり、幸せに繋がらないどころか、日々の暮らしの平穏さえをも失うから、やめておきなさい、といった意味合いで用いていた。後者は、それでも赦せない、怒りが収まらない、とむきになっていた私に「他者から受けた屈辱や侮辱、敵意や悪意を伴う言動に対して、是非を問うまでも無いから、相手の悪事に反発心を抱えることなく、お前は心穏やかに生きなさい」と諭す為に使っていたのだろう。これは、仏教の世界観に含まれる菩薩に成るための考えにも、近い心だと後に気付いた。
怒りは哀しみである。怒りに溺れる自らを救う為の、自助努力の一歩であると感じて、私は今の暮らしでは、激情を覚える度に、想念を燃え上がらせるのではなくて「ああ、これは哀しい心だ」と自らの魂に教えている。哀しみとは、単に「苦しい、つらい、醜い、愚かな在り方」ではなく、本来一人の人間として持てる筈だった慈悲の心を、ほんの一瞬の念の為に失う事が、あまりに非合理的である事を自覚した時の虚しさや、真の痛みに報いる為の、糧に成る心を指している。人間も、修羅も、その一点に於いては、魂を放置する事で耐え難い苦しみを受け取るのかも知れない。その経験則を忘れずに、成長していきたい。