2024年9月30日 内省と自由

明け方 カーテンの隙間より陽が射しこむ
力を込めて振り下ろした拳を 悔いる事がある
自ら人に優しくなれたならば 全てが報われる
私の苦しみとは 私が他者に咎を追うからだ
想念の世界は 全て自身の管理のもとにある
ゆえに 私は今すぐ 人に優しくなりたい

 怒りも敵意も悲しみも、人間を不自由にする。何もかもを、一切合切を赦してしまいたい。常にその様に願いながら、しかし、方法も解らぬまま、暗い部屋にて十二年間、項垂れていた。負の感情は、自らが己を閉じ込めるための牢獄である。私自身がこの観点に至るには、長年の受動的思考から、能動的思考へと切り替える必要があった。言動や想念は、例外無く全てを自らが律する必要があるからだ。

 私は学生の頃より八正道を学んでいた。仏陀が説いたこの教えは、物事を正しく見る事から始まる。必然的に、私は内省を繰り返す日々を送るようになった。具体的には、他責の考えに依存している自身の脆さに気付くために、苦難の記憶を敢えて振り返り、苦しみの原因、因果が自分にもある筈だ、と観察を繰り返していたのだ。始めた当初は、自信を失う上に自責の念が募り、思考能力が麻痺するほどの辛苦であったが、不可思議な事が起きた。私は、ある一定の範囲まで心が自由になったのだ。

 怒りや憎悪といった感情は、自身に対する懲罰に他ならない。想念の在り方としては、記憶の中にいる不快な他者に対して、激情をぶつけながら、相手を罰している積もりになってはいるが、実際に獄に繋がれているのは私自身である。自らに手枷足枷をつけて、無暗な葛藤の中で被害者意識ばかりが肥大化していく。では、心が自由になった、その実感はどこから湧いてきたのか。それこそ、内省の中で他責の念を取り除き、人を悪く思う気持ちが出てくる度に、相手に対して抱いた敵意の感情をフラットに戻す作業を繰り返した日々に基づいた実学である。当然の如く、獄も、牢も、手枷足枷も、自ずと消えていくではないか。詰まる所、負の感情への対処法を、意識せずとも内省の中で見つけていたのだ。

 理想を追い求めるならば、始めから怒りや悲しみといった、苦しい感情に執着しない、それだけの器を持つ人間に成りたいが、私の様な凡夫には、まだ到達できない話であり、今の段階で渇望するものでもないと考えている。私は、私という「未熟」を生きていられる事を、有難いと思う。でなければ、生きている間の、虚学や実学を学べる喜びは、どこから生じるというのだろうか。未熟である事、未完成である事は、表現を変えれば愚かさとも言い表せる。しかし、汚泥の中から蓮が花を咲かせる姿で、人に教えを説く普遍性は、決して偶然でもなければ、お遊びでもないのだから、赦す努めは終わらない。

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