2026年3月24日 白樺の賛美を歌いながら

 十四年の内省は私を研ぎ澄ませてくれた。
 雨の降る夜の街、心身に沁みる寒さこそが、私の心の糧でありました。
「どこまで、どこまでも」終わる事の無い内省が、私に孤忠の光を仰がせてくれた。
 私を侮辱する者は多い。私を誹謗中傷する者は多い。私を冷笑する者は、僅かにいる。
 幸いな事は、私の愛する人々の中に、その者達が含まれない事実、これひとつである。
 これは、決して他人事ではない。人間は、内側に留めておけないエゴを外側に発した時、同様に他者が吐き出す反論を恐れて、相手の言葉を奪おうとする。誰もが言葉を手放せない環境下に於いて、井戸を掘る事を忘れたままに、水を奪い合う事だけを覚えた、施餓鬼の無い世界である。
 他者から力づくで奪った水を飲み干しても、その喉が、心が、潤される事は決してない。
「明日は我が身」その強迫観念から猜疑心に囚われたまま人を睨み、瞼を閉じられない。

 ……いや、止そう。斯様に哀しい現実だけを陳列する事は、欲望の棚を管理する、聖地の商人共に任せておけば良い。私には三十一年という生涯に学び続けて、血肉と化した学習と実践と、そして何より、内省の実学がある。たかが私一人を倒すために、この世界の名前も顔も無い、そして、謙虚も誠実も知らぬままに偽証に邁進する娼夫共が坂を転がり落ちて、民衆から石を投げられる。石を投げない私に救いを乞われても、石を投げる様に加勢を求められても、私に善悪の二元論を押し付けても、君達は、私が全ヨジャーナーを歩き続けても、見つけられない亡者である。

 私が人助けをした姿を新興宗教と定義する若者も、私と、私が愛する文学の双方を、学問の世界に於いてミームと同等であると嗤い、侮辱する学徒らも、私の誤解という言動を押し付けた君も、私の名誉よりも、学友の名誉を擁護するために「追いかけてきた」君でさえも、如何にして、私の歩める限りの全ヨジャーナーに於いて、存在し得ると宣言できるだろうか。
 私は唯物を、唯心を、唯識を、各々優れた術であると考える。五明の教えに従いながら。
 私は、釈尊と不動明王の慈愛に、帰依をする一人の凡夫に過ぎない。
 君は何を期待して、何を残念に思い、何を悔しく思い、何に怒り、何を嗤い、何故に戻ったか。
 私が君に告げられる言葉は残り少ないだろう。何故なら、唯識世界に生きていれば、愛の反対は無関心だ。時間は刻一刻と迫っている。だから、最後に贈る言葉も、今となっては伏せておこう。

 パッサカリアの情熱に抱かれて、胸を貫かれて、心から溢れた色は愛の色。
 私は伴侶の声に憩いながら、どこまでも肉体の舟を漕ぎ続けるだろう。
 カルマは船頭で在り、意志だ。因果は唯物唯心の連鎖だ。唯識に飛び込む事は、私の喜びだ。
 貴方、愛しい貴方、私が正気の時も、文字の羅列に狂気じみた熱意や敬意を、全力を注ぐ時も、いつだって傍にいてくれて、ありがとう。伴侶である貴方だけではない。感謝したい人があまりに多すぎるのだ。だが、彼らのためならば、白樺の賛美を歌い続けよう。その喜びの中に生き長らえて、私は今日も、自身に対して負けざる者となり、不退転の一歩を歩み続けよう。

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