謙虚と誠実を騙る事は、誰もが自由にできますが、
体現をするとなりますと、瞬く間に不自由になります。
私が、性善説と性悪説との二元論を通過して、
いざ、人々の歪みと向き合う事は可能でしょうか。
赦されざる言動の積み重ねに、生きる麻酔の打ちまわし。
私はどうしても、虚言癖と放蕩ばかりは微塵も愛せない。
私自身の信条は、歪みでしょうか。ええ、そうですとも。
私達は西洋哲学の極みにある偏愛にのみ執心的で、
東洋思想の善の体現を、疎かにし過ぎているのですから。
では、話を戻しましょう、謙虚と誠実についてです。
偏愛に満たされた、全ヨジャーナーの限りを歩いても、
私達は、あなた達は、謙虚には、誠実には至れない。
それどころか、自身の未熟や欠如、至らなさを理由に、
他者への偏愛が深まり、憎悪と呼称が変わるだけです。
ご存じですか、偏愛とは自身に対しても働きかけるのですよ。
増上慢に陥る事が生きる麻酔と化して、価値を上げるために、
相対評価的な視点から、他者を貶める事に走るのです。
暮らしに蔓延る誹謗中傷が、虚言が、冷笑が、その証明ではありませんか。
私は、自らを善人であると宣言するには、相応の覚悟を要します。
詰まる所、言葉だけに終わらない、体現の瞬間こそ、
「私は善人です」と声を大にして宣誓すべきなのです。
逆説的に考えてください。つまり、体現の瞬間の繰り返しに恵まれる己になってください。
また、逆説的に考えてください。
悪意の体現の瞬間に恵まれているから、自分は悪人なのではないか。
少なくとも、悪行を止められないのではないか。
斯様な、空の思想から着想を得るフラットな視野での内省をするのです。
一切皆苦の世とは言っても、自身の内面は自らが望んだ様にしか作れない。
いいえ、自らが望んだ様に作れてしまうのです。
これが、性悪説です。同時にこれが、唯心論的な考えであるとしたら、
自らの生まれや出来事に因縁をつけて、自身の悪の一面を他責で考える、
そのロジックは、唯物論的アプローチと呼べるでしょう。
私は唯物、唯心、唯識を、それぞれ優れた道具であると考えています。
ですが、哀しい事に、八識の存在も、唯識の学問も、現代に於いては忘れられて久しいのです。
