2026年2月16日 善と悪の出生地

謙虚と誠実を騙る事は、誰もが自由にできますが、
体現をするとなりますと、瞬く間に不自由になります。
私が、性善説と性悪説との二元論を通過して、
いざ、人々の歪みと向き合う事は可能でしょうか。

赦されざる言動の積み重ねに、生きる麻酔の打ちまわし。
私はどうしても、虚言癖と放蕩ばかりは微塵も愛せない。
私自身の信条は、歪みでしょうか。ええ、そうですとも。
私達は西洋哲学の極みにある偏愛にのみ執心的で、
東洋思想の善の体現を、疎かにし過ぎているのですから。

では、話を戻しましょう、謙虚と誠実についてです。
偏愛に満たされた、全ヨジャーナーの限りを歩いても、
私達は、あなた達は、謙虚には、誠実には至れない。
それどころか、自身の未熟や欠如、至らなさを理由に、
他者への偏愛が深まり、憎悪と呼称が変わるだけです。

ご存じですか、偏愛とは自身に対しても働きかけるのですよ。
増上慢に陥る事が生きる麻酔と化して、価値を上げるために、
相対評価的な視点から、他者を貶める事に走るのです。
暮らしに蔓延る誹謗中傷が、虚言が、冷笑が、その証明ではありませんか。

私は、自らを善人であると宣言するには、相応の覚悟を要します。
詰まる所、言葉だけに終わらない、体現の瞬間こそ、
「私は善人です」と声を大にして宣誓すべきなのです。
逆説的に考えてください。つまり、体現の瞬間の繰り返しに恵まれる己になってください。
また、逆説的に考えてください。
悪意の体現の瞬間に恵まれているから、自分は悪人なのではないか。
少なくとも、悪行を止められないのではないか。
斯様な、空の思想から着想を得るフラットな視野での内省をするのです。

一切皆苦の世とは言っても、自身の内面は自らが望んだ様にしか作れない。
いいえ、自らが望んだ様に作れてしまうのです。
これが、性悪説です。同時にこれが、唯心論的な考えであるとしたら、
自らの生まれや出来事に因縁をつけて、自身の悪の一面を他責で考える、
そのロジックは、唯物論的アプローチと呼べるでしょう。
私は唯物、唯心、唯識を、それぞれ優れた道具であると考えています。
ですが、哀しい事に、八識の存在も、唯識の学問も、現代に於いては忘れられて久しいのです。

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