優しさに飢えて凶暴になるぐらいなら、
凶暴なままでも良いから、優しくなろうよ。
自らが優しく在る事で、何も得しなくたって、
不可視の計らいで、君が、私達が、育まれる。
優しい人に成る為の、最上の恩赦を受けるから、
私達は、もう何も怯えなくても良いんだよ。
他者を攻撃する者は、自分に自信を持てない者だ。自らを信じる。この有力的な行動は、自惚れや増上慢とは一線を画す必要がある。思い上がりとの明確な差の為に表記しておきたい事として、自らを信じる事に対価や条件は必要無い。人が太陽の光を浴びる為に、太陽が対価や条件を提示するだろうか。『信じる心』もそれに等しく、無償の安堵や活力を生む行いと在り方でなければならない。しかし、難しく考える事は無い。
まずは、誰よりも何よりも、自らが自己を愛してあげるべきだ。他者からの愛情(という名の表現)に依存し続ける限り、躁鬱的な気分の上下に自身が振り回され、終いには他者をも振り回し、より一層、孤独に陥るだろう。だからこそ、必要最低限の自己愛を要に、その状態を、在り方を中道と考えながら、他者と接してみてはどうだろうか。自らの存在意義や、生きている実感や、多幸感の為だけに、他者からの好意を資源の様に貪り、底無しの要求を繰り返すぐらいならば、いっそ孤忠を思い起こして、一人静かに、自己と向き合い続けた方がずっと有意義であると私は考える。小学校を卒業する間近にして、当時の担任が語った言葉を思い出す。「孤独が人を狂わせる」しかし、私はこの言葉だけが、孤独という単語の全容ではないと確信している。時には、誰からも声を掛けられず、自ら人に会いに行かずに過ごす必要性もある。何故なら、皆は「孤独」を恐れているのではなくて「孤独感」を恐れているのだ。前者は一切の生類に共通する、内包されている物であるが、後者は、日々の暮らしの中で、自身が周囲の人々との繋がりが無い、断たれている……斯様に迷う際に生じる想念でしかない。言うまでもないが、孤独感が人を壊す。だからこそ、必要最低限の自己愛という自信を持つのだ。
学生時代に精神病を患い、敵からも友からも関係が途絶えた私は、孤独感に苛まれていた。自己の価値が無いと思い込んでいた。だが、当時の恩師が私に、文学の道に生きる事を教えてくれたお蔭で、それからの十三年間、私はここまで闘えたと自負している。誰と、という話ではない。あくまで自分と向き合う為に、文学が最適なツールと成ったという事だ。人は、金を払う内は人と繋がれる。欲を満たし合う内は、人と繋がれる。それは唯物的利己心に基づく信頼関係の上でしかない。以前の記事にも書いたが、唯物的利己心に基づく信頼は幻である。その様な相互関係が、真に人から孤独を奪うだろうか。本当に自分自身を安定させるだろうか。他者と繋がる事に躍起になるあまり、誠実に自分の心と繋がる(自己と向き合う)ための術を失ってはいないだろうか。震えているのは、自信が無いからだ。