馬鹿にされたって良いじゃないか
人の持ち得る悪意を、私はその一語で片付けたくないと思った。というのも、今年の六月に入ってから、現実生活で今まで人から受けた悪意は、一色の存在ではないと考え始めたからだ。人は、悪意と聴くと何を思い浮かべるだろう。敵意であったり、嫉妬や責任転嫁の分類であったり、直接的、間接的に他者を攻撃する言動が挙げられる。X(旧ツイッター)において、私は2021年から2025年の四年間、私は複数の人達から、誹謗中傷であったり根も葉もない噂を広められたり、無責任極まりない輩たちからの攻撃を受けた。私はこれを一言の悪意と言って唾棄している。何故なら、彼らには自己が抱えた感情、衝動、想念を制御できず、ネット上で他者を貶める発言を年単位で延々と繰り返す事は、人の道から見て邪道である。悪意以前に、その者達が悪である。そこに、私の言い分が交わることが無い事を理解した上で悪用し、一方的に攻撃を継続したのだ。
しかし、私はそれらの悪をも赦す為に詩作を始めたのだから、ある種の必要悪であった。彼らの悪意という力の作用に対する反作用に加え、私自身の仏教的成長の観点、儒教的成長の観点、基督教的成長の観点から見て、大いに役立ってくれた。だが、これらの悪意は、どれも我が身の可愛さや、羨望や嫉妬、執着や病的なまでの攻撃的意図でしかない。私にはどうも、人の一生に持ち得る悪意とは、それほどに単調な心のみであるとは、想像できなかった。
物語形式で譬えてみよう。戦争で、戦闘中に負傷した軍人は主人公に命を救ってもらった。しかし、片腕は切断手術をするしかなく、生きて祖国に帰った後で、周囲からも片腕が無い事を理由に差別を受けて、馬鹿にされ続けた退役軍人が、自身を助けた主人公に募らせる思いとは、何だろうか。
いくつかのパターン化が予想できる。人間としての器が出来上がっている人物であれば「あの時、命を救ってくれてありがとう」と感謝の意を述べられるだろう。自身の苦しみにばかり心が釘付けになっていたら「どうしてあの時、見殺しにしなかった」と八つ当たりをして憎むだろう。命の恩人であり、同時に今の自己を運命づけた張本人という認識に葛藤を覚えていると、感謝して良いのか、憎めば良いのか、解らずにいて苦しんでいる事を素直に涙するだろう。ひとつめの例については、今ここで語るべき事は無い。ふたつめの例は、他者の善意かつ使命に対しての責任転嫁であり、憎悪の極みだろう。今を生きている自身と闘う事、向き合う事から逃げて、またそれら現在進行形の状況が『押し付けられたもの』と受け止めているのだから。
それでは、三つ目の例はどうだろう。これは、感謝の念である愛と「お前のせいで俺は」という葛藤の対立が、自己の内側で持続されている。これは人間性の肯定だ。如何なる立場に置かれようとも、どの様な救いが施されようとも、どの様な仕打ちを受けようとも、人は善と悪、双方の意識を選べるだけでなく、同時に抗える。悪意が単体で成り立つ状況、心境を作れる人物は、少数派ではないだろうか、と希望的に考えたい。もしもふたつめの例の様に、自己に対する利己と損得だけで考え、感情の爆発を抱える人間ばかりであれば、現在の我々の暮らしは成り立たない筈だ。私は、ひとつめの例の人々が中道派で、三つ目の例の人々が多数派である事を祈る。善心と悪心の波を、漕ぎ分けるボートの船頭になろう。