2025年4月17日 唯物的利己心に基づく信頼は幻である

仲が良い内は、人々の間に悦楽が接着剤の役を担い、
決別を迎えると、怒りや憎悪が接着剤の役を担う。
前者も後者も、縁を断つにまで至れず、
同時に互いの存在への過剰な関心を持つ事で、
信頼している、仲が良い、敵対している、怨んでいる、
そういった、無責任な損得の縁起で繋がっている。

「私達は本当に仲間だったのか」かつての友人達に、問いかけたい。これは私自身、耳の痛い話でもある。他者の何を信じていた。相手の言動か、姿か、自身が勝手に抱いていた好印象か。どれをとっても唯物的な利己心に基づいた信頼であった。他者との関係を構築するにあたり、相手を知らない自分。相手と時間を掛けて知り合っていない自分という実像を自覚しない事には、同じ苦しみの繰り返しでしかなかった。

 しかし、封建制度の無い世界観を共有した状態で、コミュニティの構築と崩壊を繰り返す事を、インターネットは可能にした。その中で私達は、まるで終わらない学園祭の様に虚しい、熱病にうなされる様な浮かれきった喜怒哀楽に依存せざるを得なくなった。その為に、健常から逸脱した、即席のドーパミンを作る為の安い信頼を生んだ。それが、唯物的利己心を満たしている間だけに発生して、破綻した途端に消え失せる幻である事を、微塵も考慮せずに、習慣化された。私自身、東洋的な封建制度に対しては、特にその制度によって保たれる地域や集団という物には、懐疑的であり拒絶の心まである。だが、我々は、パソコンの液晶画面越しに意図せずとも繋がっている世界と渡り歩く為には、大なり小なり、儒教的価値観(朱子学の六諭等)を必要であると思えてならない。無法地帯で不本意に傷つかず、意図的に傷つけず、暮らしていくためには、自らが人としての法を遵守する他に道は無い。

 愛読書のひとつに『ミリンダ王の問い』がある。弥蘭陀王問経を現代語訳したこの本を読み進めながら、常に内省の意を込めて、耳が痛い思いである。ミリンダ王とナーガセーナ長老の対論の中に、信頼について語られる場面があり、私は在家として、そのページ間を繰り返し読んだ。信頼とは、ふたつの作用があると述べられており、ここでは伏せておくが、私達の暮らしにおける異常な信頼(利己的な依存から生じる、覚悟と痛みを伴わない野放しの心)に対する痛烈な指摘をされている様で、今までの自己に対する反省と同時に、痛快な気持ちでもあった。

「私達は本当に仲間だったのか」この言葉を問いかけても、かつての友人達は、この論点から遠く離れていくだろう。しかし、私は今だからこそ思う。私達は今生での学びを共にした仲間である。この御縁を大切に思う上に、恨む事など無く、時間を共にできた事を誇りに思う。この事実のひとつだけを。私達人間は、いや、万象は単体では『在る事すら儘ならない』のであるから、互いに物質世界に生まれ出でて、学ぶ理由を持ったからには、学ぶ為に関りを持ち、関りを持つ為に出会い、出会う為に縁起を結んできているのだろう。では、信頼の前提とは何であったか。貴方達が自分を信じる様に、私を信じていて、私は自己を信じる様に、貴方達の一切を信じていたのだとしたら。我々は互いに生きる時間を以てして、道に励むために背中を預け合っていたのかも知れない。それこそが、唯物的利己心を脱した、誠実な信頼であるという一条の気づきを、大切にしたい。

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