2025年12月31日 真如の傍で在り続ける

私は八正道の実戦以外に生を知らず、
中道が存在しない世界には生きていない、と振り返る。

八正道を知る前までの自身を亡者、或いは繭と認識している。
中道を知ったからには、中道を廃した考えを重宝しない。
私の中の過去は死に絶えて、今をただ「在る」その中で、
明日の私に連鎖的な変革が起きる。変革によって起こされる。

自身の生きる道が見えた時、同時に「殉じる道」も見える。
殉じる道は生の目指す、長距離走の道のりであり、
決してゴールを指す言葉ではない。ゴールは目的ではない。
ゴールは今生の終着点、主観にとっての偶発性に過ぎない。

私が八正道を父から教わり、教書を授けられて、
病魔との闘いに、仏教の智慧を携えて、立ち向かった時、
仏縁あって与えられた如来への信心と、先人の智慧の光、
それを敢えて、何かの言葉に置き換える事はできない。

文学という術を用いて、詩や短編作品の形を通して、
人を生かす方便を世に広めたくなった、それだけだった。
文学は名誉じゃない。生活の糧じゃない。
私が今生に在る間、歩く道であり手に取る道具に過ぎない。

これは決して、私が今後不変である事を意味しない。
それどころか、劇的な変化を受け入れて、今に至るのだから。

「悪人がいる。善人がいる。では悪と善の定義は何だ」
人は言葉に出して問う。何故か。無知だからだ。
無知であるが故に、恐れと怒りを抱えるからだ。
恐れと怒りを動機に質問を繰り返す姿は、
悪と善の定義を欲する筈の質問から、その目的を消失している。

自身の無知を知り、真如の存在に体感を伴って気づき、
俯瞰と内省に生きる信徒にとって、急激に言葉の意味が無くなる。
すると、沈黙は、既に役割を完璧に達成している。
沈黙は敬意と実学、その精錬を可能にする習慣である。

私がペンを執り、内省派文学を綴る事。
私達が修行の志を共にする仲間達と議論を交わす事。
私が沈黙を用いながら、他者の沈黙を認める事。
私達が沈黙の中で、より多くを語り合える事。
私は、これらの言動に一切の差異が無い事を認める者であります。

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