子供が母親と 手を繋いで歌を唄う
愛の意味を知らなくとも 愛される幸せを知っている
母親が子供と 手を繋いで歌を唄う
我が子を愛する喜びを 愛しながら学んでいる
今日に至るまで、多くの人と出会って、私は恥ずかしい思いを幾度と繰り返してきた。他者と会話を重ねて、相手の知識量や判断力、経験に基づく実学の豊かさを、恰も値踏みするかの様に、凡夫である我が身を忘れて、自己の物差しで測っていた。正しい使用法から外れた相対評価を、自惚れとも呼ぶべき精神の在り方で多用していたのだから、私が師と出会い、叱られる度に「謙虚になれ」と叩き込まれるのも、当然の事であった。人は誰もが未熟であり、生涯の限り常しえに学び続ける事を知りながら、私は何を以て自分という一点を妄信、過大評価していたのだろうか。勿論、絶対評価を用いて自らを省みる事は、極めて重要だ。だが、その軸がぶれた時、己が蛹のまま死んだ虫である事を知った。
人を蛹に譬える理由がある。幼少期、人は周囲の環境や親に対して求める事ばかりで頭がいっぱいで、与えられる事が喜びだったのではないだろうか。しかし、成長するにつれて「そのままでは納得できない自分」に出会う時が来る。幼い形で庇護の下に、ある程度は自由に動けた体──ここでは精神と呼ぶべきか──その心の成熟を目指すために、権利と義務の両立を得る様に、自ら考える頭を持つ様に、忍耐を覚える様に、時間の経過を必要とする様に、我々は、社会性を併せ持つ蛹へと姿を変えるのではないだろうか。
だが、私は悲観しない。芋虫のままでは達する成長に限度があるのならば、自身の錬磨を欲する魂が、大小の差はあっても人間に宿るなら、人々が迎えるべくして成人して、野や町に出て、苦しむ事にも充分な意義がある。その不自由の中にこそ自由があるのだと私は考えたい。私達は、不自由から一文字だけを一時的に消す術を探し、繰り返しているのかも知れない。
無知でありながらも自身での観測が難しい自己の器というものは、相対評価に依存すると危うい事を経験から得た。絶対評価を根拠に、自分という未熟な一個体とどう向き合ったら良かったのか。人には、各々向いている『道具』があると思う。私は、文学と仏教的世界観のふたつが道具であり教書に当たる。暮らしの中で葛藤を覚えて、所謂SNSでのお気持ち表明に走っても、自己の不幸を他者に植え付ける行為でしかない。ゆえに、文章を用いて訴えかけたい主題がある私にとって、言葉は扱いが極めて難しく、同時に頼もしいツールとして、自らの無知を知り、その心に教えを説きながら技法を編めるように努めたいのだ。