2024年10月6日 生きるための執念

命ひとつを落としました では 済まないんだよ
殴られても 侮辱されても 騙されても
俺は生きてやる 俺の命の返却先は 神様の膝元だ

 執念という一語を耳にすると、様々な感想が返ってきそうだ。怒りや恨みといった負の想念を思わせるものから、欲望や煩悩などの避けたい心の在り方も含み、成長意欲または努力といった、活力の溢れる力強いものまで。執念が人に想わせるものは千差万別だろう。今日の日記の題材は、タイトルの通り『生きるための執念』だ。今回、私は生きるためならば、執念を燃やす事も人の在り方として、優れた技法ではないか……という思案を書き綴りたい。

『煩悩は苦しみの元』と説かれた時、人はどの様に受け止めるだろうか。上座部仏教や大乗仏教を齧った程度の私の場合、九割は納得して受け入れられるが、一割を残した理由もある。この不足が常の唯物的な世界に暮らす私達にとって、全員が仏教の教えやその心に呼応して、修行する身になるか、なれるか、と問われたら疑問だ。着たい服、食べたい物、住みたい場所、三大欲求や社会的欲求、様々な煩悩という名の泥に塗れた私達がまず成すべき目標は、淡々と生きる事ではないだろうか。「今まで仏教に傾倒した詩を散々書きながら、今更何を言う」と思われても不思議ではないが、これが現時点の、私なりの中道の在り方なのだ。この中道を成り立たせるための一部として、執念を用いる事は、現代に於いて役に立つ、と私は考えている。

 では、生きるための執念とは何か、これも日記として整理したい。私は2023年の秋頃に、旅行で神奈川県に二週間滞在した。当時の経験から私は「苦楽には一切の差異が無い」という変わらない考えを持ち続けている。この考えは今日に至るまで何度も考え直し、新たな体験や思案を通して、色や形、観察の術を変化させながらも、その結論は変わらないどころか、より確信へと近づいていった。つまり、自己のアップデートを重ねながらも「苦楽には一切の差異が無い」という答えが約束されているのだ。当初の私は「苦しみと幸せには違いが無いのだから、一喜一憂せず、どちらにも拘らなくて良い」といった方向性で考え始めたが、今では「煩悩が生むものには、苦しみと喜びのふたつがあるのだから、中庸の考えで使い分けたら、生きる上で役に立つ」という視点も併せ持つ様になった。この、煩悩が生む生きる喜びを、偏らない範囲で必要に応じて得る習慣は、決して悪ではない。その在り方を、私は執念と呼んでいる。絶望するぐらいならば、まだ光ある道を進んだ方が理に適っているからだ。

 友達とカラオケに行ってバカ騒ぎしたい。体に悪そうでもコーラを飲みたい時がある。一日を通して三大欲求を思いっきり満たしたい。作品を世に出して認められたい願望がある。大好きな人と一緒に過ごしたい。怒りの対象を何としても赦したい。斯様な、暮らしから生じる願望の全てが、時と場合の中庸に沿う形であれば、生きるための喜びをもたらしてくれる、善い執念ではないだろうか。私は、決して仏教的世界観から逃げ出したい訳ではない。神仏やその教えを尊び、修行仲間を大切に思う心を持っている。しかし、それも生きていればこそ、この物質世界で叶う物事だ。生きることへの執着を、咎める方々もいるかも知れないが、私達には、身体を授かる事で不足の世に生きるだけの、相応の理由があるのだろうから、生きている間は淡々と生きられる様に、程よい執念を用いて、喜んでいたい。

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