2024年10月4日 赦すという必然的選択

三年間 人を赦したい一心で艱難辛苦に耐えた
その度に魂は砕けてしまい バラバラの破片を集めた
赦そうと努力をする度に 破片はより細かく砕けた
遂には砂状になってしまったので 浜辺に撒いてあげた
その日から海が 悲しみの受け皿の様に思えて
水晶の船を浮かべて 私は船頭になった

 今となっては愛しい日々として、思い出す度に温かな気持ちになれる過去も、当時の私にとっては、文字通り一日たりとも忘れる事の無い怒りに狂う日々だった。私はこの三年間を、生涯で得た最も大切な実学のひとつに数えている。憤怒は、下手な欲望よりも克服が困難な想念の在り方で、常に苦しめられてきた。以前の日記にも記した通り、私は、嫌な記憶が突然にして鮮明に再現されて、理性が麻痺して、心身共に疲弊するため、生活がまともにできない体質であった。この身体や心と向き合って暮らしていくには、必然的に赦す努力を覚えるしか無かった。これが「赦しは能動的な行い」と自ら呼ぶ所以だ。

 多くを失った直後の自分には、赦す為に費やす時間が悔しかった。まるで、痛みを負った私自身を置き去りにして、当事者達を楽にしてしまう様な、不公平にも似た感覚に苛まれたからだ。また、良心の呵責に従って赦す努めを継続しようとも、一向に心が楽になれない暮らしに、月日ばかりが過ぎて、もしかすると私の努力は無意味ではないのか、と焦りが募った。だからこそ、私は当時の己を抱きしめて、その不安と恐怖、焦燥感を取り払ってあげたい。同時に、私の怒りに怯えていた彼らにも、安堵を与えたい。人が怒りを燃す時、それが無私に基づく人間愛の行いでないならば、その怒りに正当な理由は付与されない。人が人に与えられるものは、敵意や暴力、憎悪や怨嗟ではなく、ご縁があって繋がれた人々への、小さな賛美とお祝いの言葉、そして「ありがとう」の一語で充分な筈だ。厳しくもなければ難しい話でもない。「人の幸せを願ってこそ人間」である事を、生涯の指針としているだけだ。

 では、無私に基づく人間愛の行いでなければ、怒り自体が過ちである訳とは何かを考えた。怒りの根は、自己の喜びや利益への執着、即ち利己心だ。受動的な在り方や、理性の一歩外側での反射的な本能に振り回されているに過ぎない。「いや、その様な事はない。正しさや人の為に怒る事もある」と反論をしたい方も、大勢いる事は百も承知だ。しかし、正しさの為に怒る事は、自らの倫理への妄執的な依存をした結果であり、義に属した錯覚と自惚れから生まれる言動だ。人の為に怒る事は、庇う相手と自己との利害関係に依存している側面も内包されている。家族や親しい人の為に怒る者はいても、赤の他人の為に怒る者は少ないのだから、怒りには苦しみと、歪んだ快楽の両面がある事は想像に難くない。人間は如何なる動機があっても、激情で応じた事が既に、利己の現れに成り得る。私が他者から憤怒を向けられても、その我欲への執着を見据えて、受け付けない理由でもある。

 人の幸せを願ってこそ人間。この信条のひとつに助けられてきた。上述の通り、怒りとは利害の執着が生む心の在り方であり、行いだからだ。自身を大切に思う事と等しく、その半分だけでも、関わる人達の全員を思いやれたら良い。家族、友人、恋人、知人、隣人、怨敵、決してその様な関係の違いに区別をする事なく、等しく愛してしまえば、小さな自分とその利己主義に拘る事が惨めであったと気づける筈だ。その時になって初めて、少しずつでも積み重ねた赦しへの努めが、怒りを抱えてしまう自身と向き合い続けた暮らしが、実は目に見えない形で己に報いてくれている、遅効性の良薬だった事を知るのだから。

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